荒城の月とは

1901年、土井晩翠の詩に滝廉太郎が曲をつけた「荒城の月」。月と城、過ぎ去った時間、いまを生きる人の想いが重なります。

かつて人々が集い、栄えていた城。いまは静かな城跡となり、月だけが昔と変わらず夜空を照らしています。過去と現在の対比が、この音楽劇の入口です。

創作音楽劇「荒城の月」は、音楽・歴史・文化・人々の想いを舞台でたどります。

滝廉太郎(たき れんたろう)

明治時代に日本で初めて本格的な西洋音楽を取り入れ、数々の名曲を残した天才作曲家です。

わずか23年10カ月の短い生涯でしたが、日本の音楽史に大きな足跡を残しました。その生涯の歩みは、東京藝術大学の前身である東京音楽学校への入学から始まります。

〈誕生から幼少期・学生時代〉

  • 1879年(明治12年)

    東京で生まれる。父の転勤に伴い、横浜、富山、大分などで育つ。

  • 幼少期

    小学校の担任からオルガンを教わり、音楽への興味を深める。

  • 15歳(1894年)

    東京音楽学校に最年少で合格し、本格的に西洋音楽を学ぶ。

〈代表作の誕生〉

  • 21歳(1900年頃)

    ピアノや作曲で才能を発揮し、組曲「四季」の『花』や、唱歌の『荒城の月』『箱根八里』『お正月』などを作曲する。近代日本の音楽教育に貢献する。

〈ドイツ留学と早すぎる死〉

  • 22歳(1901年)

    文部省の命令でドイツのライプツィヒ音楽院へ留学する。

  • 帰国

    留学後間もなく肺結核を患い、わずか数カ月で帰国を余儀なくされる。

  • 1903年(明治36年)

    大分で療養生活を送る中、死の直前に絶望と無念を込めた最後のピアノ曲『憾(うらみ)』を作曲。同年6月29日、23歳10カ月で永眠。

唱歌「荒城の月」が世界的芸術歌曲になった経緯

  1. 滝廉太郎は、わずか23歳と10か月(明治12年~明治36年6月29日)という短い悲劇的な生涯を終えた作曲家であり、その作品のほとんどが21歳、22歳の頃のものである。
  2. 廉太郎は明治34年22歳、東京音楽学校在学中、中学唱歌として「荒城の月」のメロディのみ作曲した。
  3. 山田耕筰は、「荒城の月」の素晴らしいメロディに伴奏譜をつけることを考え、大正7年、編曲したところ、日本国内に歌曲として歌われるようになった。
  4. ロンドンの日本大使館の外交官(1等書記官)だった吉田茂は大正10年、パーティーの席上、イタリア留学中のテノール歌手藤原義江(当時23歳)に日本語による歌曲「荒城の月」を歌う機会を与えたところ、大喝采を浴び、それが契機で「荒城の月」(日本語)は日本初の代表歌として欧米に広まった。廉太郎は日本のシューベルトとして高く評価され、藤原義江は世界的オペラ歌手として人気が出るきっかけとなった。
  5. アメリカのレコード会社ビクターは大正15年、藤原義江の人気に目をつけ、日本人初の専属歌手として契約し、大正から昭和初め、日本語による「荒城の月」のレコードSP盤を発売し、世界的にヒットした。
  6. このようにして、藤原義江は明治唱歌「荒城の月」を世界的に有名な日本初の芸術的歌曲に高め、そしてこの「荒城の月」との出会いにより、世界的有名なテノール歌手として名声を得て昭和9年6月、藤原歌劇団創立の財政的基盤を作ったと言える。滝廉太郎という作曲家が「荒城の月」を作曲したからこそ、藤原義江は「荒城の月」にめぐり会い、「荒城の月」を歌うことがきっかけとなり、世界的なテノール歌手が誕生したといえよう。
  7. 本公演は藤原義江創立の藤原歌劇団員を中心としての公演である。

木村一郎